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ビッグインタビュー:帝京大学大学院医療技術学研究科
柔道整復学・前専攻主任 塩川光一郎氏

2014/05/16

分子細胞学の第一人者として世界的に有名な塩川光一郎氏は、2008年4月、帝京大学に柔道整復学科が開設された時に学科長として就任され、また大学院が新設された4年後には専攻主任教授として、柔整教育界のフロントランナーとして活躍された方である。「細胞の気持ちが分かる柔道整復師を育成したい」として、柔道整復学問分野並びに教育界に大きな影響を及ぼした塩川光一郎教授は、柔整学研究領域に何を残し、どういう思いで去っていかれるのか。帝京大学大学院を3月に退官されるにあたり、今の心境を語っていただいた。

 

柔道整復学の構築までには道半ばでありますが、学問の方向性を示し、芽がいっぱい育ったように思います
菅道子氏

帝京大学大学院
医療技術学研究科
柔道整復学・前専攻主任 
理工学部 バイオサイエンス学科・前教授(兼坦)
塩川 光一郎 氏

 

―まず最初に塩川教授が柔道整復に関わられて来られた経緯をお聞かせください。

私は、帝京大学でバイオの教授として6年間勤務しておりました。ある日、冲永学長から〝柔道整復学科を作ることにしたので学科長をやってください〟と言われました。その時は驚きましたが、考えてみると骨接ぎの仕事というのは、再生医療に近いということもあり、私は発生学が専門の立場で柔整学が専門ではありませんでしたが、お手伝いはある程度出来るのではないかと思ってお引受けしました。

やはり、私の気持ちとしては、武田薬品で3年間ウイルスの薬を作る仕事に頑張った時代もありましたし、1972年にニューヨークの血液センターに移った時も、当時献血は始まっていましたが未だ売血の時代で、売血で病気が伝播するため、善意で献血する健康な人の血をニューヨーク全体で扱うようにニューヨーク血液センターが頑張っている中で、私はメッセンジャーRNAというイースト菌の基礎研究をしていました。基礎研究は大変重要ですが、やはり人間を助ける仕事のお手伝いをしたほうが生き甲斐を感じられるのではないかと考えました。また私は、柔道初段でしたから「柔道整復」という名称に抵抗がなかったというより寧ろ馴染んでいたこともあり、柔道整復学科の職員を本務にして、バイオを兼担にしたのです。そして私の腰椎は分離すべり症で、いまはそれが悪化して狭窄症になり、近い内に手術と言われております。言いにくい話ですが、私の腰椎をそのようにしたのは柔道整復師の方でした。施術が終わる時に術者はバーンと体を左右に動かします。その施術を受けて、3日間うんうん唸って寝込みました。軟部組織がひきちぎられた形になったんですね。以来、私は「細胞の気持ちが分かる柔道整復師を育てる」という志に繋がっていったように思います。

しかし、私が「細胞の気持ちが分かる柔道整復師を育てる」という思いに至った一番の出来事は、私が九州大学大学院のドクター3年の学生の時に、0歳児の娘が骨髄炎になり、整形外科の院長先生に治していただきましたことです。治療の2週間め、私が〝今日レントゲンを撮りますか?〟と聞いた時に院長先生は〝この状態の骨にはレントゲンをかけない〟と言われ、X線照射はこの状態の骨には不適当な処置であるから、観たいけれども今日は観ないと仰られた。1週間後にもっと回復が進んでからレントゲンを撮られて〝思った通り回復しています。念のため、あと1週間薬を飲んでください〟と言われました。その体験が未だにずっと私の中で生き続けているのです。従って、私の「細胞の気持ちが分かる柔道整復師を育てる」という言葉は、私の腰椎のこともあるけれど、私の娘の病気の時に院長先生がみせた注意深い処置、そこから始まっています。1968年にその院長先生から得たインプレッション、それが私にその言葉を言わせたのです。原点はその院長先生のお蔭です。ただし、細胞の気持ちが分かる柔道整復師だけではまだまだ足りなくて、細胞の気持ちが分かる柔道整復師がもっと育つべきであり、医師が育つべきであり、薬剤師が育つべきであると思っています。

 

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