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何故、柔道整復は国民に支持されてきたのか?【第1回:古代における柔道整復】

2017/01/01

柔道整復は日本古来の伝統医療として、時代に応じた国民ニーズをその存在の根拠として認められ、今日にまで至っていると表しても過言ではございません。編集部では、これらの経緯を踏まえつつ新たなテーマで皆様への発信を致して参りたいと存じます。
どうか本年もご愛読賜わりますよう宜しくお願い申し上げます。

 

何故、柔道整復は国民に支持されてきたのか?

それでは大略的な歴史的経緯から紐解いて参りましょう。

柔道整復師の先生方は、柔道整復の歴史的経緯についてどのようにお考えでしょうか。
柔道整復師と言う身分は、これまでに大きく2度、事実上の消滅の時期がありますが、それらを踏まえながら進めることと致します。

古代における柔道整復と言える職業として、「按摩博士」なる身分・名称が残されています。時代は、大和奈良の地に都が構えられた藤原京~平城京時代の頃、大宝律令や養老律令にその記載が認められているようです。

当時での公的な医療的施設として典薬寮が設けられ、134名の職員で医事全般を司り、薬事については内薬司において28名の職員で司っていたとあります。

典薬寮における階級順位としては、位階:従五位下・勲等:六等の頭を筆頭に助、医博士、允、咒禁博士、医師、針博士、咒禁師、鍼師、薬園師、按摩博士、按摩師、大属、と続いて、位階:大初位上である少属までが給与を得られる医療関係者として記録がなされ、当時の最高官僚である位階:正一位では、現代換算で年俸約4,000万円、医療関係者としては最低となる按摩博士は年俸およそ400万円とのことです。

給与としては決して高額とは言えませんが、この時代における按摩こそが柔道整復の原点となるのかもしれません。

当時の按摩とは、骨・関節の損傷を取り扱う専門職であり、按摩博士は教師、按摩師は診療担当者、按摩生は学生として骨・関節損傷の整復や固定などに加えてマッサージ的な手技や瀉血までも学び、学業専念第一とする考え方から修業期間中の雑役など禁止であったそうです。

我が国の医療は、当時の東洋で先進国であった唐から得る部分が多く僧侶などの身分者も医学の心得を有し、僧医などと呼ばれ貢献した者も現れており、平安時代初頭の著名な僧侶として、天台密教を修め天台宗を開いた最澄、真言密教を修め真言宗を開いた空海なども密教・仏教学のみならず広く医学の心得があったとされる資料も残されています。

我が国最古の医学書である医心方(丹波康頼による撰述三十巻984年完成)には、創傷治療と骨折・脱臼・打撲・捻挫等の治療について記載されていますが同書は秘本であり、門外不出とされたことから治療法の参考書として広がりをみせていません。

平安時代以降、特に武士が台頭する時代が続くことから、戦による負傷者の一刻も早い回復が戦の結果を左右することもあり、いわゆる軍医的立場の職業として、金創医なる名称を持つ者たちが活躍されたようです。

彼らは、その身分や待遇を維持するため、治療法に関しては極端な秘密主義を取り一子相伝の形態を守り、自然に数派の治療流派が形成されるに至ります。

金属製の武器によって負傷された者の傷を治すという外科的な治療を含むことから、金創医と呼ばれ活躍したそうですが、金属製の武器による負傷ですから現代で言う外科医としての治療資質が濃かったのかもしれません。

この後の時代は湯液や漢方などが専ら医療の中心であったようで、キリスト教伝来の前後頃から、これら日本古来の治療法に加えて傷病を科学的に捉えて治療する蘭方医学が取り入れられ、我が国に根差すことになって参ります。

 

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