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ビッグインタビュー:法政大学人間環境学部人間環境学科教授 朝比奈茂 氏

インタビュー 特集

今回のコロナ禍において、いわゆる教育現場では、何が不可能になり、そのことによって何が失われたのか、また如何いう発見があったのか?そして、今後はどのようになっていくのか。本来あるべき姿とは、如何いうことなのか?
18年前に「スポーツトレーナーの道」でインタビューさせていただいた朝比奈茂氏は、現在、法政大学人間環境学部・人間環境学科で教鞭をとられている。その朝比奈教授に忌憚なく話していただいた。

西洋医学と補完代替医療との統合を目指しています!

法政大学
人間環境学部
人間環境学科
教授 朝比奈茂 氏

法政大学
人間環境学部
人間環境学科
教授 朝比奈茂 氏

―先ず、朝比奈教授の教育理念をお聞かせください。

教育は、確実に必要だと思っています。しかしながら、教育の内容が「科学的思考」に偏っていることが問題であると思っています。データ主義によって「客観的な数値」が重要で、頭がそういった思考になってしまっている気がします。つまり、科学至上主義になっています。

例えば、医学でいうとEBMです。EBMはもちろん重要です。しかし、それで全てが解決できる訳ではありません。現在、西洋医学が中心に行われている日本において、全ての病気が治り、解決するかといえば、目に見える肉体的な部分に関しては、医療に貢献している可能性はあります。しかしながら、精神的な部分、つまりEBMでは直接示すことが出来ない病気というのは、近年加速度的に増えていると感じています。西洋医学のような科学的なエビデンスを重要視する教育はもちろん必要です。それと同時に、哲学的な教育を行う必要があると思われます。なぜなら人間は、そもそも「科学的」な生き物ではなく、「哲学的」な生き物であるからです。だから、これから先、いくら西洋医学が発展したからといって、全て解決することはありません。

人間は「肉体」と「精神」の両者で成り立っております。一般的には、肉体は3割で、精神は7割と言われています。決して5対5ではありません。さらに言うと、東洋医学の視点では、限りなく肉体はゼロに近い。というのは、東洋医学というのは前提として「自然や宇宙との一体観として生体をみる」という整体観があります。その観点から、宇宙空間にある地球や月、その他の惑星は人間で言う「肉体」であり、それ以外の空間(混沌とした広い空間)は「精神」に例えられています。従って東洋医学の視点からは、肉体は限りなくゼロに近いと解釈できます。現在日本で行われている医療は、西洋医学が中心であり、対象は肉体であります。しかし、人間を取り巻く環境が加速度的に変化している中で、精神的な疾患が増加しております。これに対しては、もはや西洋医学一辺倒では対応できないことが明らかになってきているのはお分かりでしょう。さらに付け加えると、人間の大部分が肉体より精神が上回って構成されていること、また「人間は哲学的な生き物である」ことを鑑みると、医学のみならず、現代行われている教育は「科学」を重要視しているため、教育としてはバランスが良くないと感じています。昔は哲学とか宗教学、文学や芸術学というもので想像力を養い、心を豊かにし、幸せに生きる力が身についたと考えられていたため、これらの学問の比重が大きかったと思います。しかし、いつ頃からかこれが逆転し始めて、そのバランスが悪くなってきた結果、貧困をはじめ様々な社会問題につながっているように感じます。

近年、就職においても、文系の学生より理系の学生が有利であると報告されております。私たちの生活の多くは人間と人間との関わりの中で成り立っております。このような教育をずっと続けていけば、世間(自然界の法則)との解離は広がるばかりです。自然の中で生かされている人間が、その法則を無視して活動していれば、言わずともこの先の生活が予測できてくるでしょう。これからの教育は、人間らしく生きるために必要な、文学、芸術学、社会学、スポーツ、哲学、宗教学などの文系科目の重要性にもっと気づくべきです。

―文科省が7月1日の時点で調査をした結果、254の大学で遠隔授業のみを行っていたとありました。その後、後期以降は対面授業を前提として困難な場合は遠隔の実施・併用を検討するように通知したとされています。法政大学、特に朝比奈教授がおられる人間環境学部はどのような学部で、また今回のコロナ禍においてどのような授業形態をとられていらっしゃいますか?

法政大学に「人間環境学部」が創設されたのは、当時、教養部に所属していた教員を中心に、今から21年前の1999年でした。丁度その頃、世界では環境問題について議論されはじめ、当時の先生たちが議論に議論を重ねて、学部が創設されたと聞いております。1990年代は、環境問題というと、大気汚染や水質汚染等などの自然環境や生活環境について、理系的観点からのその問題への解決が主流でした。しかし法政大学は文系が主体となって、歴史を刻んできたため、文系的視点により、環境問題を捉えることができました。例えば「環境と法律」、「環境と経済」、「環境と地域活動」、「環境と文学」などの学際的な視点です。キーワードは、「人間」と「環境」です。環境というのは、単独に存在するのではなく、人間が地球で生活している上で、必然的に環境問題が生まれます。だから「人間環境学部」なのです。日本で初めて創設された、文系からの視点、学際的な視点から「人間と環境」を捉える学部でありました。

当学部の特徴として、教室で学んだ知識をフィールドに出て実践する(確かめる)、「フィールドスタディ」があります。普段であれば、長期休暇の度に学生はプログラムに沿ってフィールド(学外)で実践することになりますが、今年に関しては、こういう状況なので、本来の目的を果たせていません。辛抱の時だと思います。

現在、大学ではオンラインを中心に講義を行なっております。本来は対面授業を行う以外、考えられなかった授業形式です。学生も教員も最初はかなり苦労しました。しかし、コロナ渦において、大学教育を継続するには、これしかなかったのです。私はこのような状況においても、全て悲観的に捉えていません。悪いこともあれば、良いこともあります。答えは何十年後にでるでしょう。しかし、そうは言っても、実際に影響を受けている学生はいるので、しっかりとフォローも必要です。特に1年生と4年生です。人間環境学部では、「ホームカミングデー」を設けて、1年生と4年生を対象に、少人数の授業に限り、秋学期3回ほど、対策をしっかりとした上で、大学に来てもらい対面での授業を行なっております。1年生は入学式も行なっておらず、また春学期、一度も大学での授業がないため、このような機会はとても重要と考えています。

―いま1年生と4年生について一番危惧するとされておりますが…。

そうですね。どの学年も大事な時期である、つまり、学年を問わず大学という場所で学ぶことは、みんな一緒。しかし、特に1年生と4年生は「入口」と「出口」という意味でも重要であると考えます。1年生は、語学の授業とか体育の授業でクラスの友達ができます。また、サークル活動で同じ考え方の友達ができます。今回のコロナの影響で、この二つ、つまり友達を作る機会を失ったのは、かなりの痛手であると考えます。また4年生においては、最終学年であるため、今までできなかったことや、やり残したことを行う機会がなくなりました。中途半端に卒業してしまう感じがします。また過去の4年生は大学で学んできた知識や経験をもとに、私たち教員とかなり深いところまで、環境問題をはじめ、日々の生活、将来的な展望など、話しをしてきました。私としては、何かぽっかり穴があいた感じがしております。

―今後の授業は、どのような形で?

コロナのことで本当に予定通りには進まなくなったというのはあります。今後に関しては、当たり前ですが、学生の安全を最優先にした上で、出来るところから少しずつ、対面形式の授業に戻していく。もちろん、対策をしっかりと講じた上の話になります。しかし、学生によってコロナに対する考え方や感じ方が異なります。コロナに楽観的な学生、悲観的な学生、様々です。学生数が多ければ多いほど、多様な考え方を持った学生がいるのは当たり前です。私たちは全ての学生が自由に学べる環境を作らなければなりません。もし、対面授業がこれから増えたとしても、不安に感じる学生が一定数いた場合は、その学生にとって不利益がないよう、今後のことは決定していくつもりではあります。

―このたびの新型コロナウイルスの感染拡大により景気の悪化が著しく国の奨学金を受ける学生が昨年度と比べて86%も増加しているとありましたが、法政大学では授業料の減免など、どのような支援を打ち出されていますか?

法政大学では授業料の減免は行いませんでした。その理由はホームページを通じて、総長が声明を出して学生やご親族に理解を求めました。それとは別に、オンラインの授業を行う上で、必要とするWi-Fiなどの通信環境や視聴する端末(パソコン、タブレットなど)などの受講環境に関するものに対して、希望者に一定額を補助するということを行いました。奨学金については、当大学では「学生センター」という部署があります。学生センターでは講義や授業以外の学生生活全般(課外活動)を取り仕切っており、この中には、奨学金の業務も含みます。そこからの情報によると、やはりこの時期、例年以上に奨学金を希望する学生が増えているという話は聞きました。大学としては、家計の経済的な理由で大学の授業を受講できないことにならないよう、奨学金の給付、貸与の事業を5、6年前から進めてきました。そのため、今回はスムーズな対応ができていると感じております。

―やはりコロナ禍に関連することで、朝比奈教授のお考えをお聞かせください。

非常に多くの感染者がおりますが、実際に20代で亡くなっているのは1人です。この方は、持病を持たれておりました。これは交通事故による死亡よりも低い確率です。交通事故を恐れて、活動を停止したり、躊躇したりしているでしょうか?つまり持病を持たない、心身ともに健康な学生は、例え感染したとしても、死に至るような重症化はしないと思われるので、しっかりと感染対策を講じた上で、通常の行動に戻しても良いと考えております。しかし、学生(若者)は行動が活発で、その範囲も広い。多少具合が悪くても外出を控えない。それに加えて、感染したとしても無症状である。だから、たちが悪いと考えます。学生が考えなければならないことの一つに、他人に移さない(感染させない)ということです。

私たちの人間は、ウィルスやバクテリア(細菌)が体に侵入した場合、それらを排除するために、即座に免疫応答がおこります。応答段階に応じて、体には熱が発生したり、咳が出たり、関節が痛くなったり、鼻水が出たり、全身がだるくなったり・・・これは生体が示す防御反応であり、これらの反応は全てウィルスやバクテリアなどの異物を体外に排出する過程による生体反応であります。したがって、これらの反応(症状)に十分注意して生活をしていると、現在どのような状況なのか(感染の初期なのか回復期なのか)が分かります。もし、感染が疑われていたら、外出を控え、身体を温め、水分とビタミンCを摂取し、早めに床につく、などと行った一連の行動をとれば、何もしなくても私たちの免疫がしっかりと、ウィルスなどの異物を体外に排出してくれます。

もちろん、免疫が十分に機能していることが前提です。免疫を十分機能させるにはどうすれば、良いでしょうか?これもそれほど難しくありません。心や体に必要以上に負荷をかけないことです。無理をしないことです。勉強、運動、仕事、人間関係、日常おこる一切について、無理をしないことにより、免疫は高まります。逆を言えば、無理をした(ストレスをかけた)瞬間に、免疫は一過性にも下がるでしょう。さらに連続的に負荷がかかれば、免疫は下がり続けます。このような状態の時に、ウィルスなどが身体に侵入することで、これらは生体内(細胞内)で増殖して感染してしまいます。身体内でおこる免疫応答について多くの学生が知っているとは思えません。だからこそ教育は大事なのです。異物に対する免疫の反応は、すべての人間でおこります。あまり難しい内容ではありません。だから、義務教育で全員に学んで欲しいと私は考えます。それにより、正確な知識と行動をとることができ、無用な心配をしたり憶測でものを語ったりする人が減るでしょう。

私たち人間は、数十から数百万年前から、現在まで種を絶やさず、ずっとつないできました。その期間、度重なる、絶滅に関する様々な問題があったと思います。その中にウィルスやバクテリアなどの感染によって、危機的状態もあったはずです。しかし、その都度、人間は、生き残るために免疫を強化して進化してきました。つまり、人間の歴史はウィルスとともに歩んできたと言っても過言ではありません。ウィルスは人間を滅ぼしてしまうことはきっとない。なぜならば、ウィルスは人間などの細胞の中でしか増殖しないからである。つまり、人間が絶滅すると人間に関わるウィルスも絶滅してしまう。であるから、決してウィルスは全ての人間を殺しはしない。それより、現在は人口増加に伴い、地球規模で人間活動が盛んになり、地球のキャパシティーを超え、もうすぐ限界に近づいていると感じます。その証拠に近年頻発する異常気象による自然災害も、私たち人類に警鐘を鳴らしていると思わざるを得ません。新型コロナウィルスは私たちに何をもたらしたのでしょうか?私は、地球がウィルスの力を借りて、多くなりすぎた人口を調整し、それにより地球自身にかかる負荷を少なくしているのではないかと考えています。その結果、地球上にある全ての生物が持続的に存在できるように調整しているのではないかとすら感じております。ちょっと暴力的でいきすぎた発言かも知れませんが、「自然や宇宙との一体観として生体(人間活動)をみる」という、東洋医学家としての視点から述べさせて頂きました。

それとは別の視点から、新型コロナウィルスは私たちの生活(働き方や学び方など)に様々な変化をもたらしてくれました。悪いことばかりではありません。良いことも沢山あります。働き方一つにしても満員電車に乗らずに済む。ちょっとした会議であれば今はリモートで可能です。大学でいうと休講がこれからはなくなります。今までは教員や大学の都合(これは私的でなく公的なもの)で休講が年に何回かありましたが、それは一切なくなり、学生は全ての授業回数を受講できることになります。特に体育会の学生にとって、非常に有難いことです。なぜなら今までは、体育会活動で学業の時間が奪われていました。特にウインタースポーツは顕著です。法政大学のスキー部は雪上での練習機会を求めて、中国やヨーロッパにて練習を行うため、10月過ぎるともう日本に居ません。今年はオンライン授業であるため、どこにいても、やる気さえあれば、体育会活動と並行して学ぶことができ、結果的に単位を習得できるため、留年が減ります。今後、コロナ禍が収束して、通常に戻ったとしても、オンラインによる、働き方、学び方は形を変えつつも残っていくべきであると考えます。

―学生同士の交流は、オンラインによる授業とスマホだけで大丈夫でしょうか?

学生同士の交流については、圧倒的にそれではいけないと考えます。大学で学ぶ目的は、講義とゼミと課外活動(サークル活動)の3つであると私はいつも主張しています。この3つはそれぞれ役割(目的)あり、どれも同じくらい、必要であり重要であると思います。3つが有機的に機能することで、大学生活の4年間が充実したものになるかどうかが決まると言っても過言ではありません。

それを踏まえて、あえて質問に対する回答をすると、現在行われているオンラインよって、効果を得にくいものに課外活動があります。講義やゼミは何とかオンラインで対応できるにしても、課外活動だけは無理だと思います。なぜなら、課外活動は同じ興味があるものが集まって、何かを作ったり、発表したり、議論したりして初めて、その目的が達成されます。それには2次元的なものではく、空間的な活動(体験)が必要です。もっとも必要な要素は「肌感覚」です。全身から溢れ出る「気」の作用です。これを感じて、一つの大きな目的を達成するので、これはオンラインではできません。出来ても中途半端なものになってしまいます。であるから、長くこの状態が続くと、それなりに何とかなりますが、今までのような人間関係(コミュニケーション)を重視した社会活動の変化もおこると考えます。つまりコミュニケーションが取れない人間が多くなり、社会もそれに沿って変化していくでしょう。

とは言え、そのような社会はすぐに訪れることはありません。何十年単位で変化していくと考えます。もともとコミュニケーションをとることが得意な学生は大丈夫ですが、苦手な学生がオンライン中心の学生生活を送ったとすれば、さらにコミュニケーションがとりづらくなり、二極化が広がります。最終的には大学生も仕事に就くことになる訳ですが、その就職の時に、あまりコミュニケーションをとってきていない人がコミュニケーションを必要とするような職についたら、多分苦しくて直ぐにその職場を辞めてしまいます。そうなってくると働く範囲が狭くなり、結果的に職が失われ貧困者が大勢生まれます。このことが収入の二極化に繋がってしまうため、間違いなくもっと格差社会につながっていくでしょう。これから20年後(今の大学生が40歳くらい)の社会というのは、もの凄く怖い。本当に格差社会になると、今度は犯罪が頻発してくると予想します。現在、様々な問題において格差について語られていますが、今回のオンラインの発展がその要因の一つになると考えます。

しかし活路の一つとしてあげるとすれば、それは「地方移住」であると思います。繰り返しになりますが、私たち人間は、宇宙と自然に相応して存在していますから、人間らしい生活(宇宙の原理原則に従い、自然環境と調和して暮らす生活)というのは、都会より田舎に住むということによって達成できると考えます。最近になって都会から地方に移住する家族が増えているとニュースで言われています。政府が都会の一極集中を回避するための方策をいくら考えてもなかなか進まない現状を、今回の新型コロナウィルスは一気に地方移住を促してくれました。現在、会社に行かずオンラインでできる仕事が増えています。このような人は、都会に住む必要はありません。今までは仕事が理由で都会にいなければならない人がいましたが、今回のコロナによって、そこは解消されました。地方移住者が増えれば、感染拡大も減るし、バランスが取れた生活環境が訪れることになります。 

今後、オンラインに限らず、AIが必ず日常生活に入ってきます。人間が仕事を奪われるといった、ネガティブな発想を持つ人が多くいますが、現時点においてA Iの情報処理能力は人間を上回りますが、「りんごの赤」を生み出す人間の意識現象について、AIが獲得することは不可能と考えます(今後の展開によっては分かりませんが・・・)。なので、人間としての本質である「意識現象」を仕事上で生かし、情報処理はAIに任せるという、仕事分担をすれば良いと考えます。これから先AIが多くの仕事に入ってきます。特に農業や林業や酪農にもAIが導入され、人間の労働の補助をしてくれるでしょう。今後は第一次産業にAIを積極的に取り入れて労働者の負担を軽減していくことで地方移住も進むと考えます。つまり、そういう農業とか酪農というのは都会では出来ませんから、田舎に移住して大自然の気持ち良さを感じながら仕事や生活することが増えることを期待したいと思います。

―もう18年も前になりますが、朝比奈教授に『スポーツトレーナーの道』でインタビューさせていただきました。その時にお話しされたことですが、朝比奈教授は、山梨県立富士河口湖高校に進学して、そこはボート部が強い高校でインター杯や国体では常連の優勝高校のボート部で活躍され〝順天堂大学に入られてボート部がなかったので愕然とした。地元で今もボートを続けています〟ということでしたが、その後も未だボートは続けていらっしゃいますか?

2016年に法政大学の体育科のボート部の部長に就任しました。自分が希望した訳でもありませんが、色々つながっているなって感じております。タイミングよく、自分のやってきたことで部長になれたのは幸せです。法政大学体育会ボート部の合宿所は日本ボートのメッカである戸田市にあります。そこは1964年に行われた東京オリンピックで使用されたコースで、いま法政大学の練習場は合宿所の目の前です。朝起きたら練習場に通うことなく、すぐに乗艇できるという環境で一年中練習をやっています。大変恵まれた環境で過ごしております。今年はコロナの影響により、例年より練習も制限され、中止になった大会もあります。しかし、インカレ(4年生が最後の大会)を無観客で行いましたが、実施できました。関係者には感謝の言葉しかありません。というのは、学生はそのために毎日辛い練習をこなしてきたからです。私は会場に行くことができなかったため、インターネットを通じて応援しました。インターネット中継は、会場にいけない方(地方の応援者や日本以外にいるOB、OG)にも観て頂くことが可能になったため、やはりマイナスのことばかりではないことが、こんなところにも影響が及んでいます。コロナがあけてもインターネット中継は併用されるでしょう。

私は現在、ボートを漕いでいませんが、この競技はとても大好きです。競技の内容はただ真っ直ぐにゴールを目指す。もちろん、ペース配分などの工夫はありますが、練習により積み上げられたもの(体力や技術)が勝負を分ける。とてもストレートで愚直なスポーツです。ただ苦しいスポーツですが、勝った時の喜びやゴールを目指して全力で漕いだ爽快感は体験したものでしか分かりません。だから、先輩後輩同級生のつながりはずっと続いています。

―18年前は、法政大学サッカーチームの専属トレーナーをされていましたが、その後は如何されましたか?

現在も法政大学のサッカー部にはたまにですが、行っております。ただ私は市ヶ谷で、サッカー部は多摩キャンパスなので、頻繁に行くことができません。一生懸命取り組んでいる、サッカー部員が大好きです。それとは別に山梨にある「ヴァンフォーレ甲府」というチームに関わってもう19年目です。現在トレーナーは私を入れて4人で、私の役割は試合帯同(ホーム、アウェイ)のみです。19年もやっていますので、妻からは〝歳とって動けないし、迷惑だからもう辞めたらどう?〟と良く言われています(笑)。確かに同じチームに19年というのは長いほうだと思います。このチームを強くしたいという、ただその思いだけです。フロント(GM)の考え方が現場に伝わり、勝利に向けて日々努力する、その人たちと一緒に仕事をしたいというのが前提にあります。変わらないという意味では、選手に対しての気持ちです。私の原動力は、慈愛というのか、助けたいという気持ちが常にあります。選手は自分の子どもみたいな感覚です。なにしろ夏のピッチは35℃といった暑い中で90分間、本当に死ぬ寸前というか、倒れながらもやっている姿を見て、放っておけない、なんとかしなきゃという気持ちが一番強いです。選手がこれだけやっているのだから、なんとか、疲労回復を手伝ったり、コンディション向上に助言したり。私は学問や役割を超えた存在でありたいという思いが強いです。

他のトレーナー(若手)に対しては、国家資格を所持している以上、こちらからは技術的指導はあまりしません。ただ立ち位置だとか、なり振舞いについては助言をします。つまり〝こういう風にすることで選手との人間関係がよくなるよ〟とか〝ここは教科書にこう書いてあるけど、選手もプロだから、こっちの専門知識を押し通さないほうが良い〟などです。どれくらいの距離間で話しているか、どのタイミングで近寄っていくのか、いかないのかとか、それは口で言う場合もありますが、“まあ見ていろ”と、いつも言っています。

東洋哲学や東洋医学は、体験や経験を伴って、はじめて分かった(理解した)ということが言えるので、知識だけを覚えていても全く役に立ちません。なので選手に対して施すこと全ては、ご自身で実際に体験したことや経験したことをもとに実施すべきであると思っております。若いトレーナーは時間を惜しんで多くの体験と経験を獲得することが、現在自分に対する投資だと考えています。さらにどうすれば長くこの仕事を続けることができるか、についても日々考えて行動して欲しいです。そうとはいえ、私もそれほど大したことは考えていませんでした。ただ時間が過ぎたと言った感じです(笑)。

―指導者も選手も新しい方法の開発とか気にされる人は多いように思いますが…

人間というのは、まず骨格がベースとなり、そこから様々な組織が然るべき位置に存在し、一番外側に皮膚が覆いかぶさって、肉体は存在しています。どれも人体を構成している重要な要素ではありますが、その中でもやはり骨格が重要だと考えます。骨格の機能はとてもシンプルです。それ自体が心臓や肝臓などの臓器のように複雑な機能を備えているわけではありません。骨格は人体の基礎(土台)です。家でいうと基礎や土台、柱に相当すると考えます。どんなに時代が変わっても骨格に対しての考えは変わりません。歪みのある骨格を、家に相当して考えると傾いた家として存在します。このような家は刺激(地震などのような)によって崩壊してしまいます。人体においても同様な考えを持つことができます。骨格が正常位置(私は左右対称性を意識しています)を逸脱するに従って、運動強度が上がるにつれ、最初は耐えていてもそのうち障害となって負担がかかる部位に現れます。筋肉がいくらトレーニングされていても、土台がしっかりしていなければ、その力を十分に発揮することはできません。なので、シンプルである骨格が一番大事であると考えております。よって、最新式のトレーニングの前に選手の骨格を意識して助言を与えています。

―〝呉竹学園を選んで、鍼灸の2年次に受験をして、同じ学校の午前中は鍼灸、午後は柔整に通い、鍼灸を先に卒業して国家資格をとって、学位をとるために昭和大学の研究生になり、ボランティア、治療、トレーニング、リハビリ等々、学校にいる間は教えて貰えると思ったので、どんなところでも頭を下げて、アンテナを張っていました〟とも仰られておりました。その頃はどんな思いでしたか?

その当時は楽しかったですね。だから、凄く努力したとは思っていませんし、全然苦しく無かったです。当時、西荻窪駅近くの4畳半、シャワー付きで4万5千円位の部屋にずっと住んでいました。とにかく、いつもワクワクして朝出かけていたということだけは、今も覚えています。当時も今も仕事に行きたくないと思ったことは一度もありません。というより、仕事と思っていなかったのかも知れません(今も!笑)。いつも自分勝手に好きなことをやっていたのでしょう。当時を振り返ると現在よりずっとハードワークをしていたと思います。いろんな仕事を受け持っていました。ですのであっという間に1日が過ぎていった印象があります。何事にも自分から求めて行動して、まあ狩りに行くみたいな感覚であったことを覚えています。

―今の法政大学にはどのような経緯で?その研究内容についても教えて下さい。

18年前のインタビューをした数年後の2005年ごろに、前職場である昭和大学で「漢方」を医学部2年生の授業に取り入れました。それをきっかけに私は医学部の1年生を対象に「補完代替医療」の講義を持たせてもらいました。補完代替医療は世界に約600種類ありますが、その中でも東洋医学が中心となって位置付けられており、その他にもカイロプラクティックやオステオパシー、ホメオパシーといった療法があります。それらについて、これから6年間現代西洋医学を学ぶ学生にとって必要であるという大学の方針に沿って、私が授業で紹介しました。そのような授業実績から、たまたま法政大学の人間環境学部で公募がでていたため、大学をうつることになりました。

現在の研究領域は柱が2本ありまして、一つは「スポーツ医学」で、法政大学の体育会が所属するSSI(スポーツ・サイエンス・インスティチュート)で講義を行っています。もう一つは、補完代替医療の中でも、鍼灸学とヨーガについて研究を進めております。自分が歳をとってきたこともあり、如何に高齢者が病気にならないために何らかの手法を施すかについて体験を通じて発信していきたいと思っております。

ヨーガについては、2015年度の1年間と2019年度の春学期にアメリカに留学して、全米ヨガアライアンス(RYT500を取得)を学んできました。ヨーガはインドが発祥ですが、特に身体運動を伴った「ハタヨガ」と呼ばれるポーズを中心としたストレッチ系のヨーガは、アメリカ合衆国で盛んに行われています。ヨーガというのは、4000年から5000年の歴史があり、当時のヨーガは心理的作業(瞑想)を中心とした流派や解脱を得ようと行動的・意志的な流派があったとされておりました。現代のストレッチやポーズを行うヨーガは、瞑想に入るための一つの手段ということで捉えられており、瞑想することによって、ストレスを軽減し、ストレスが軽減することで病気になりにくい構造になっております。

中国医学はおよそ2000年の歴史があるとされておりますが、それより更に倍近いのがインド医学・哲学であり、その後中国に伝わったので、東洋医学・東洋哲学の根本はインド医学・インド哲学となります。しかも、そのインド哲学の中心的なものの一つとしてヨーガがあるので、ヨーガを学ぶ意義は東洋医学の根本に通じているため非常に重要であると考えております。私がアメリカでヨーガの指導を受けた先生はジーニーというアメリカ人女性で、彼女の生徒さんは高齢者(70歳以上)の方でした。そこで毎日一緒にヨーガを行った訳ですが、とても勉強になりました。日本のヨーガは、若い人が美容を目的とした場合が多いけれども、アメリカは子どものヨーガ、妊婦のヨーガ、お年寄りのヨーガ、身体に障害がある方(正座ができないため椅子に座って実施する)のヨーガもあります。ヨーガ自体は科学的ではありません。歴史的に経験を通じて発展してきたのでEBM云々と言うことをいう人はやらなければ良いし、その対象ではありません。EBMこだわること自体がナンセンスと言って良いでしょう。今後は高齢者や障害者を対象に普及していくことを目標にしております。

―柔整でもそういった予防的なことをアドバイスされている先生もおられますが、施術は怪我をされた後にされますので・・・

そうですね。柔整の発祥というのは、やはり昔の柔術から来ており、柔術(殺法)を鍛えていけば、戦も含めて当然怪我は起こります。その怪我に対応して、治療(活法)したのが今の柔道整復術です。両方ができる人を達人と呼んでいました。

当時は怪我をしないために、日々稽古に励み、準備をしておりました。怪我をしてしまったら、戦力は落ちてしまうため、怪我に強い人が重宝がられていたと予想されます。怪我をしないためにはどうすれば良いのか、やはり日々の稽古(トレーニング)が予防にもなります。とはいえ、ずっと稽古ばかりしているわけではありません。時には戦もあります。それが現在でいう、試合に当たります。試合をすれば、外傷が起こります。稽古(トレーニング)の強度によっては、障害がおこります。いくら予防していても、高いレベル(意識)で何事にも取り組んでいれば、身体の不具合は必ずひきおこされます。そこを柔整として対応して行けば良いと考えます。

そもそも柔術の向上からスタートしたので、もっと運動(トレーニング)を全面に出せば良いと考えます。また少しの怪我であれば病院に行かず自らケアする(セルフメディケーション)意識を高める指導を行う。最終的に怪我が減るので、病院に行かず医療費が減る訳です。今後、国は高騰した医療費を減らすために、運動をもっと推奨してくるでしょう。その時に真っ先に柔整師が対応できれば、国も予防(運動)に予算計上する可能性が高まります。そのためには、柔整師が団体としてまとまることが必要だと考えます。個人で動いていても、やはり国は動きません。そこをしっかりと見極めて進む必要があると考えます。

―〝10年ごとに目標設定をしています。10年後の自分はどうしたいのか。今やっていることが仮に失敗しても全く問題ないですし、それは肥やしになって次の10年後に活かせられれば良い〟とも話されておりますが、やはり今もその目標設定は続けていらっしゃるのでしょうか?

やってきました。今は、どちらかというとプラトーな状態です。ある程度まで区切ってきましたので、後は残った人生何をしたいのかというところ考えています。大学においては「統合医療」に向けて補完代替医療分野の充実を目指しています。どちらか一方にというのではなく、西洋医学の得意としているところ、東洋医学の得意としているところをしっかりと整理して多くの人の役立つ教育や研究を行っていきたいと思います。現在の医療は西洋医学にまだ偏っております。西洋医学の不得意分野である、「精神的な治療」においても、西洋医学が中心となって行っています。精神的な治療に関しては、補完代替医療の分野が効果を期待できるので、積極的に導入できれば良いと思います。しかしこれには見えない力が働いていると考えるので、医療分野においても構造改革が必要です。そうすることで、国民が薬漬けにならず無理なく幸せになると思います。

国民の多くは補完代替医療について、あまり関心を持っていません。というより、ほとんどの人が、言葉も聞いたことが無いようです。当然、内容も分かりません。教育が足りないからです。「体の不調を感じたら、まずは病院にいく」という考えはもう古いです。そんなことをしていたら、いくら税金を上げても足りません。これからは補完代替医療の時代がきます。これらは古くから行われてきた医療システムなので、全く効果がないとはいえません(効果がなかったら医療としてとっくに消えています)。ただ、現代科学では証明できないものが多いので、科学至上主義に生きる多くの国民は、〝東洋医学ってうさんくさい、なんかまやかしだ〟と思うようです。そもそも人間は科学的な生き物ではなく、哲学的な生き物であるため、哲学的視点が多い東洋医学の素晴らしさをもっと知って欲しいです。今後、現代西洋医学だけでは対応できない病気が増えてきているので、補完代替医療(東洋医学)分野が台頭してくると予想できます。私が生きているうちにその社会を見てみたいです。

―筑波大学の白木教授はからだサイエンス誌第151号で〝現場で必要なのはコンディショニングコーチですから、その人が怪我の処置も行えるとなると怪我に関して強いのは、やはり柔整です。絶対外傷に強い。現場でやるには僕は柔整だとずっと思っていて、柔整・鍼灸・マッサージを持っていたらそれで十分ですが、プラス体育大学を出てほしい。そういう人が現場に来てくれると、これは使えます。なんでもできる便利屋さんなんですけど、これが本来のトレーナーではないでしょうか〟と述べられていらっしゃいます。朝比奈教授は如何思われますか?

私も体育大出身で、鍼灸あマ指、柔道整復師、JSPOATでもあるため、白木先生のお考えのトレーナー像にはぴったりですね(笑)。現在トレーナーで活躍している方の多くは何らかの医療資格を持っております。その医療資格には必要とされた背景や役割があります。例えば理学療法士であれば、脳血管障害の後遺症や交通事故の後遺症により身体の一部の機能が失われた場合、その回復が主な役割だと認識しています。鍼灸は、経穴(つぼ)を刺激して、経絡における気の流れを調整することによってバランスをとり、病気の予防や治療を行います。また痛みに対しても効果を発揮するため鎮痛にも用いられます。柔道整復師はなんと言っても外傷に特化しています。例えばサッカー競技中に捻挫をした場合は、この3つの職種では柔道整復師が最も適しているでしょう。柔整は発祥が武術(柔術)によって引き起こされた怪我の対応が主であるため、スポーツ(運動や日常生活を含む)でおこった怪我に対しては今後も柔整理論で対応してもらいたいと思っております。スポーツもレベルが上がれば、怪我も増えるので、その対応として柔整の資格を保持したスポーツトレーナーが現場に多く増えることが望ましいでしょう。しかしスポーツトレーナーというのは、怪我だけ治せば良いのではなく、その他業務が沢山あります。リハビリだとか、選手の教育だとか、治療だけではない。柔整の学校で学ぶのは治療ですし、接骨院も治療がメインですから、競技スポーツに特化したAT(アスレティックトレーナー)は、必須になってくると考えます。更にATより深く基礎を学ぶのは体育大学ですから、白木先生がおっしゃられていることに凄く賛同致します。

―パラスポーツに対しては朝比奈教授はどんな風に考えていらっしゃいますか?

まず、アスレティックトレーナー(AT)の「アスレティック」というのは競技者という意味があります。障がい者や健常者に関わらず競技者であれば、勝利を目的にしているので、トレーニングや試合によって、外傷や障害が発生する可能性が高いと想像できます。よってATはいたほうが良いでしょう。またATの役割の一つにコンディショニング指導があります。コンディショニングは選手自身がセルフでできることが基本です。健常者であれば大体のことはセルフでできると思いますが、障がい者は自由に使えない箇所があるため、全てセルフでできないこともあります。そのような場合はATが障害に応じてトレーニングや疲労回復などのコンディショニングを一緒になって行うことが望ましいと考えます。もしかして健常者よりも必要になってくるかも知れませんね。しかし、現状は多くの場合、障がい者スポーツにATがついていないと感じます。理由は報酬であると考えます。つまり、ATに支払われるお給料がでなければ、仕事として継続しません。ボランティアやスポット的な関わりも不可能ではありませんが、やはりやれることは限られてきます。今後の課題は、ATの必要性を周知して、それに対する予算を組んでもらい、チームスタッフの一員として認知されることだと思います。こちらに関しても今後少しずつ変わっていくと予想されます。

―今後はどういったことをやろうとされているのですか?

私は何事も「二つの視点」でものを見ております。この世に存在する事象は「表裏」「上下」「左右」「天地」などといったように2つのバランスによって成り立っております。どちらか片方では存在できません。私たちの人生も同じく「生→入口」があれば「死→出口」が必ずあります。どちらも同じくらい大事だと考えております。人生における「入口」の部分では生後から6歳までの幼児期だと考えております。この時期にどのように親が子どもに関わるかとても重要です。なぜなら、子どもは自分の意志で行動することはできないからです。この時期は全てにおいて親がサポートしなければ、体験や経験が積まれません。体験には量的体験と質的体験があります。どちらも重要ですが、質的体験については、3歳から6歳まで過ごす幼児教育が関係してきます。

現在、私と妻で、「森のようちえん」というスタイルの「認定こども園」を運営しております。「森のようちえん」というのは、ドイツや北欧で多く存在し、季節を通じて一日のほとんどを自然の中で過ごすことで、五感を養うことを目的にしています。子ども達は、雨の日、雪の日、寒い日、暑い日など、雷の日以外は、毎日森に出かけ自然の素材(草木や小枝など)を使って遊びます。自然の中で過ごすことにより、天然の刺激を身体全体で受けることができます。自然の中にあるものは全て幼児期の五感をマイルドに刺激します。よって無理なく成長することができます。この時期に体験や経験したことは大人になってもずっと身体の奥深くに存在します。大人になって幼少期のことを具体的に覚えていなくても、問題ありません。なぜならば、体験として身体が記憶しているからです。なので、この時期の過ごし方はとても重要と考えています。

今後は「出口」についても考えていきたいです。まだ具体的な方法を見いだせていませんが、人生の終わりに何を考え、行動できるか、そして静かに土に帰っていくような出口をサポートできるような仕事ができることを夢みております。

朝比奈茂氏プロフィール

1969年、山梨県生まれ。
山梨県立富士河口湖高校卒業。順天堂大学体育学部健康学科卒業。呉竹学園東京医療専門学校 卒業。

取得資格

鍼灸あマ指師、柔道整復師、日本スポーツ協会公認アスレティックトレーナー、全米ヨガア ライアンスRYT500。博士(医学)

トレーナー歴

2009年ユニバーシアード(ベオグラード)大会男子サッカーチームトレーナー、法政大学サッカー部トレーナー、J2ヴァンフォーレ甲府トレーナー

専門分野

補完代替医療学、ヨーガ、アスレティックトレーニング学

趣味

ヨーガ、ウォーキング

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