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ビッグインタビュー:帝京大学空手道部師範監督・香川政夫氏

インタビュー 特集

これほど誠実に、真摯に稽古をして強くなった人はいるのだろうか?かつてこのような凄い武道の達人・指導者はいたであろうか?かけがえのない人との強い絆をもち続ける一方で、命がけの精進と努力、その人間力はどのように培われたのだろうか?香川師範にお聞きした。

~新入学の皆さんに向けて~
昨年の全日本大学空手道選手権大会で13年ぶりに全種目優勝!4冠達成!前人未踏の優勝43回。帝京大学空手道部、その強さと凄さとは?!

帝京大学空手道部 師範監督 香川政夫氏

帝京大学空手道部
師範監督
香川 政夫 氏

―昨年の12月に開催された第31回日本柔道整復接骨医学会学術大会で香川師範は「変わる力・変える力」というテーマで文化講演をされました。その講演の中で、お兄様が空手をされて日本空手協会の全国大会に出場し優勝され、壇上で胴上げをしましょうと誘われて〝自分は空手もやっていないのにそんな聖域には入れない〟と断ったと話されました。またお兄様が、日本一になったら世界中どこでも空手道着一つで回れると言われていたことについて、その時のお気持ち等、教えてください。

壇上で胴上げをしようと誘われましたが、やはりその壇上には足を踏み入れられませんでした。なぜなら、自分は空手もやっていないのに其の聖域には入っていけなかった。だから遠慮しました。かつて兄と話をした時に〝俺はお前がそんな指導者になるとは思わなかった〟と。兄貴は空手で日本一になれという気持ちを持って教えていたけれども、まさか指導者として今のような姿になるとは考えられなかったと言っていました。道着一つで世界を回れるというのは、兄がそれをしたかったのでしょう。そういうことをやりたかったがいろんな事情でできなかったのを、私にそういう話をして、それならば私も強くなりたいと思いました。そういう夢を持たせてくれたことに感謝です。その先には何が待っているのかということは、あまり言わなかったけれども(笑)。

――これまでの人生を振り返ると何が一番心に突き刺さっているでしょうか?

実は私、中学卒業後に働いて身を立てようという思い、何か手に職をつけるものがあればという気持ちでした。父は既に10歳の時に亡くなっていました。3月に中学を卒業して、母が5月に亡くなりました。交通事故にあって、その3日後に亡くなったんです。それが凄くショックで、俺これから何をやるのかなと、そんなことを悶々と考えながら鉄工所で働いていました。兄が工場の前を通って、私の働いている姿を見て、〝お前イヤイヤ働いているな。定時制に行け〟って言われました。それで次の年に定時制高校に入学して、そこから花が開いたというか道が開きました。今でも覚えているのは、入学式の時に雨が降っていて、定時制だから夕方の5時位が入学式です。4時に仕事を上がって着替えて、私は学生服に長靴を履いて傘を持って入学式に行きました。その時の光景を鮮明に覚えています。雨が降っていたのに門をくぐって校舎に入った途端に晴れて後光が射していました。体育館に入ったら、〝誰が来たんや?〟という顔をみんながしていて、長靴で学生服、それで傘を持って、さっきまで降っていたのが晴れた(笑)。いやあ俺の人生なんか開くのかな~と、まあそれがあって大学に来ることができました。定時制に行っていなかったら帝京大学に入れなかった。本当に兄のお蔭で道が開けました。

定時制というのは、4年間で半分は辞めていきます。私は絶対にやり続けるという気持ちで入りましたから、働いて、学校に行って、野球をやっていましたが、17歳の時から兄貴に空手を習い始めました。帰るのは夜の12時、1時に寝て、朝の8時半には職場に入らなければならない。家を出て途中のパン屋さんでパンを食べて、牛乳を飲んでそれを4年間繰り返しました。そのエネルギーはなんなのでしょう。今やれといったら死にますね(笑)。まして仕事が鉄工所です。鉄を削るため油が飛び散って、刃はグッと旋回するから油がビューっと飛び散る、それをまともに被って油まみれです。指の毛穴に油が入るから、押したら油がピュッと出ました。家の近くに銭湯があったので、定時制に行く前に工場が終わってから銭湯に行って、一番風呂です。番台のおばあちゃんが私の顔を見てイヤーな顔をする、汚いのが一番風呂だから(笑)。それの繰り返しでした。まあそこで根性も気持ちの強さも、自分がやりたいことの責任感等も培われました。

―高校時代に活躍されたから、帝京大学への推薦があったのでは?

日本空手協会主催の第1回関西地区大会がありました。この時に京都産業大学の空手道部の主将と1回戦であたりました。私は未だ高校生です。向こうは京都産業大学の主将ですが、一本勝ちで勝ったんです。そこからみんなが〝おい、大阪に強いのがおる〟って騒ぎだして、いろいろ声がかかるようになりました。野球はしていましたが、空手の練習はそんなに毎日していなかった。試合に出たからには、根性だけは負けないという気持ちでしたし、ほとんど私より年上の人と練習していましたので、学生とやっても何とも思わなかった。ヨッシャーと言う気持ちで全然ビビるようなことはありませんでした。

―お兄様に〝空手を教えてほしい〟と言って〝覚悟はできているのか?!〟と言われ、覚悟って何だかわからなかったが、そこからが地獄だったとも話されました。その頃の厳しい修行等についてもお聞かせください。

鞄持ちから始まりました。昨日まで一緒に歩いていたのに〝バカヤロウ、ちゃんと鞄をもたんかい〟と急に変わって、〝あ、こういうことね〟と。今まで普通に会話していたのが、口もききづらくなりました。1カ月位してから兄と、〝お前の友達に空手をやりたい奴がいたら、みんな呼べよ〟という話になって、私も友達から〝俺も空手やりたい〟〝僕もやりたい〟と言われていました。丁度、ブルースリーが流行り始めていた頃でしたし、兄は一切お金を取りませんから、その道場に40人位集まりました。さあ来たら大変です。当時、道場を掃く長箒というのがあるんです。それが竹刀替わりです。1週間で半分位になって、一カ月経ったら最後に一人残って、私と二人になりました。その子は今治で空手をやっていた子で、年齢は一緒くらいでした。一カ月後、今度は毎日フリーでどっちかが倒れるまで組手をさせられました。ヤメって言うまでやり合うんです。とうとう半年経ってその子が来なくなりました。後になって今治の道場の先生から〝地獄やった〟と、言っていたって聞きました (笑)。それで私が一人残って本格的に始まりました。つまり篩にかけて落としていったんです。

それからが、どんな練習かというと、当時兄は強化選手という大阪の選手のリーダー格でしたからみんな強い人が集まる。円陣になって練習をする。お前は壁に向かってヤメと言うまで突いていなさい。組手が始まったら、掛け声が気になるため、ちょっとでも振り返って見たら、後ろからどつかれる。次にその場蹴りを一カ月、そんな練習でしたが、今はそんなこと誰もやりません。当時はヤメというまでやるんです。練習が終わって、〝こっち来い、ちょっとやってみろ〟と言われて、後ろが曲がっているだ、なんだと延々と何時間もやるんです。

大阪外国語大学の道場があって、真ん中にグラウンドがありました。夜に、さんざん叩かれながら基本をやった後、〝それで良い、じゃ帰ろうか〟と兄に言われましたが、〝イヤちょっと残っていく〟と言って、兄は先に帰りました。本当に後ろ足が浮かないのかを確認するために何回もグラウンドを回ってその動作を繰り返したので、疲れ果てて浮く元気がなくなった。もう浮く元気が無いんです(笑)。それで、その要領を覚えた訳です。やはり何でも要領です。しかし、それが分かるまでには時間がかかるんです。そんなに直ぐにできるはずがない、分かっていないんです。徹底してスパルタでやるもんだから、私も叩かれるのが腹立つし、できない自分が悪い。グラウンドを何往復もした結果、最後はできるようになりました。兄はそんな指導をしていました。

―香川師範に帝京大学からお誘いがあり、その時に「ヨシッ日本一に」と決意されたように感じました。やはりそういう誓い、決意をされたことや、それからの血の滲むような稽古があったからこそ、大学3年の時に初優勝されたのでしょうか?

当時、阿部先生という方が兄と東京の本部で知り合って、先輩後輩の間柄でした。私が京都産業大学の主将に勝ったということが耳に入ったんでしょうね。見ていないし、会ってもいないのに、君の弟なら間違いないだろうということで、〝帝京に寄越せ〟という話になったらしいです。そういう話を兄から聞いて、〝お前どうする?〟と。〝帝京に行きます〟って、一発返事でした。兄も阿部先生の実力・指導力は天下一品だと言っていましたし、間違いないと言っていました。

私の腰は慢性の分離症で、練習の時にグキっとなって、整骨院に行ったら「慢性の分離症」と言われました。〝どうしたら良いんですか?〟と聞くと、〝痛かったら、もう辞めるしかない〟と。〝イヤ、どうやったら治るんですか〟と言うと、〝腹筋、背筋を鍛え、体幹を鍛えて、それでカバーしてやる根性があるか無いか。それを続けなかったらまたなるよ〟と。つまり治らないので、そうやってカバーするしかない。〝分かりました〟と言って、それで基礎体力をつけるようになりました。今でも帝京大学の練習の基本であるチューブトレーニングをその時から徹底してやりました。阿部先生にそれを伝えたところ、みんなは担ぐ練習をしても、お前は担がないで良いと決して無理をさせなかった。それは阿部先生が死ぬ前まで〝あの時にそれをやらせなかったことが良かったんやなあ〟って言ってくれていました。本当に無理をさせなかった。だから、それはもう感謝しています。トレーニングを積んで、積み上げてリカバリーしたという経緯があります。

―大学3年の時に下宿を出られてアルバイトを転々とされ、ご両親が早くに他界されていたこともあり、仕送りなしに自分で稼ぐということで、主将になりプロの世界に入られ実績をあげて、帝京大学の師範・監督になったとあります。香川師範にとって一番辛かったことはなんでしょうか?

自分で働くことが小さい頃から身についていて、なんでも自分でやることが普通だと思っていました。親がいないから、親に何かをしてもらうや、兄弟にお金の援助をしてもらうなど、全く思っていなかった。大学に入った時は、渋谷先生の家に2年間居候をして、定時制で働いた時の貯金を持ってきていましたので、それで毎月を繋いでいました。それでも自分に甘えというものがあるから、俺は勝てないんだなあっていう思いがありました。大学の3年生というと準幹部です。1年生はいろんな用事で、2年生は教育係、3年生でやっと自分の時間が持てるんです。つまり3年、4年で成績を上げるんです。大学生というのはそういうもので、3年、4年で勝負する。しかし、2年の終わりの全日本で成績が出せなかった。その時に当時の顧問であり帝京の学生課長をされていた秀野通泰先生に、〝先生、どこが足りないのでしょうか?〟と聞いたところ、先生は〝ワシも分からないけど、何かが足らん。自分で探してみろ〟って言われました。そこでハッと気がつきました。これは自分探しをしないと仕様がない。今のままじゃやっぱり甘えているんだなっていう。それで、一大決心をして3年になる前の春、3月に下宿を出ました。

そこから大学の練習が終わった後にアルバイトをやって、当時の学生アルバイトというとお小遣いを稼ぐためがほとんどでしたが、私は生活費のために仕事をしていましたし、まして合宿に行くとなったらお金が無い訳です。生活に余裕がない。横浜のコンビナート会社の土方で飯場暮らし、手作業で穴を掘る工事です。そこに2,3週間行って、飯場暮らしですから住み込みです。みんなは合宿前に強化練習をしていますが、私も練習しなければいけないから飯場の2階建てバラックの鉄柱にチューブを付けて突いたり蹴ったりしていました。その時におじいちゃんが、〝君なんかやっているの?〟〝空手です〟と。〝ああそう、凄いなあ〟って言われましたが、そのおじいさんとたまたま飯場のお風呂に一緒に入る機会がありました。そのお爺さんは、北海道の利尻礼文島から出稼ぎに来ている人でした。昆布漁、漁業だから力仕事で、筋骨隆々で贅肉などない。1年の半分、冬は出稼ぎに来られる訳です。この人は家族のために生活のために、夏は昆布漁で漁業をして、冬は仕送りのために朝から晩まで土方をして、60、70という年になってもやるその姿を見た時に自分が恥ずかしかった。その時、自分は合宿のために働いていた訳で、私は自分のためにであったから、辛いもキツイもない、辛いなんて言ったらバチがあたる。その方の筋骨隆々な体を見て、自分はまだまだひよっこだと感じましたし、人生を学びました。

空手が強くなるというのは、成長すれば自然に空手も強くなるんです。技じゃないんです。心が強い、気持ちなんです。その気持ちというのは、やはり何年もかかって積み上げていくもので、コツコツ時間をかけて、いろんな人と出会ったり、いろんなことを経験したり、本当にそういう意味ではいろんなことを経験させてもらいました。

―帝京大学を日本一にするためには寮・合宿所を作るしかないと決意され、平成8年12月に寮が完成。そして平成10年11月には全日本大学選手権で男子が初優勝されたそうですが、その寮での練習・食事、寝食を共にするというのはそれほど凄いことなのかと驚きました。ご苦労話や成果等お聞かせください。

やはり私の恩師であり、当時拓殖大学の監督をされていた津山先生とお話しする機会がありました。津山先生は私に〝週に何回教えているの?〟と聞かれました。その当時、私は週に1回指導に来ていました。〝それじゃ勝てないよ〟って一言いわれました。〝えっ、どういうことですか?〟と。〝やっぱり週に3回は来ないといけないし、時間を費やさなくてはダメなんだよ〟と。そこで頭をガーンと叩かれました。要するに大学の駅伝にしても野球やラグビー、柔道、剣道でもやっぱり強いところは合宿所があって、みんな寝食共にしている訳です。〝ヨシ〟と思って決心をしました。私の後輩で建築家の守屋君に〝強くさせるにはもう合宿所を造るしかない〟と話をしました。女房に話をして、長男も小学生でしたが連れて寮生活が始まりました。5年間、学生と共に暮らしましたが、今はコーチが寮長として入れ替わりました。

平成8年の12月に寮が完成して、その時から2年目の平成10年11月に初優勝を果たしました。本当にトントン拍子の勢いで結果を出すことができました。もう涙の初優勝です。寮の規則作りは女房がやってくれました。1年生から4年生まで全員が7班から8班を形成して、その班で1週間おきに、掃除や台所や食堂等を2カ月に1回担当します。例えば2カ月に1回トイレ掃除、2か月に1回食堂班で朝食を作らなければなりません。必ず1年生から4年生まで入ります。しかし、4年生になっても寮の仕事はやる。そういうルールを作りました。やはり私が気づけない部分を女房がフォローしてくれていました。盆暮れには寮の近所に菓子折りを持っていくというのは他で聞いたことがありません。それを25、6年ずっとやっています。この寮生活があってこそ、優勝に結び付いたことは、間違いありません。うちの牙城です。寮がなかったら全日本で優勝はできていなかったと思います。

写真提供:帝京大学
写真提供:帝京大学
写真提供:帝京大学

―また昨年の全日本大学空手道選手権大会で13年ぶりに四種目完全優勝、4冠達成、前人未到の記録を達成されました。今も記録更新中で、この挑戦をし続けるために目標を持って稽古をしている。帝京に来る子達は厳しい覚悟を持って入学してくるとも話されましたが、コロナ禍の時に寮での生活はどうだったのでしょうか?

まさにコロナ禍では、さまざまな規制がありました。しかも大学の配下の中で、〝キチッとやってください〟と言われたことを守って、そういった規制がある中でも練習、稽古ができました。優勝をするためには、厳しい規則を学生らが守るということ、我慢も辛抱もするということを覚えた訳です。つまり、好き勝手をしているのではできないんです。そういう厳しいルールの中で、何をどうしたら稽古が出来るのか。つまりルールを守るというのは、大人の考えでなかったらできません。〝誰も見ていなかったら良いじゃないか〟等、甘いほうに走ってしまいます。しかしながら優勝するため、大会に出場するためには、あの当時一人でも二人でもコロナが出たら出場停止です。コロナが出た大学は、出場してはいけないとなっていました。みんなアパートではなく寮生活ですから、一人でも出たらもうアウトです。試合に出られません。試合に出られなかったら大変です。そういう訳で、行く所にも行かずに我慢して寮にいるしかない、厳しかったです。ある意味、刑務所みたいなもんです。それを帝京大学空手道部は全うしたのです。まさに帝京しか出来なかったから神様が優勝をくれたのかなと思っています。

―今年の3月に行われたWBC侍ジャパン監督の栗山英樹氏は、「選手らを信じる、選手に任せる」という風に言われて、なるほどなって思いましたが、いかが思われますか?

我々は〝帝京大学にいきたい〟という学生を教えています。いまだスタートの時点であり、片や超一流の選手。こちらは全く一流かどうかわからない原石です。あちらはダイヤモンドで、輝いている選手です。帝京大学の学生は未だ原石なんです。ロシアのクレムリンの地下に博物館があります。昔のロシア皇帝のダイヤモンドや原石がいっぱい展示されています。同じダイヤモンドでも原石は真っ黒ですが、磨いたらピカピカになるんです。どうダイヤモンドにするかは、3年4年になって上がっていく。その中でいかに育てるか。育て方というのは、やはり20年前とは違います。よくみんな勘違いするのは、師範は、〝こうヤレと言ってやらせているのではないか〟と。どうもそういうイメージがあるらしいが、イメージで判断しちゃいけません(笑)。私は全く違います。帝京大学は団体戦に5人出たら、5人とも違います。つまり、どこの大学はこういうやり方、どこどこの大学はこういう技を使うといったことが結構多い中で、本大学はバラバラで、個性が強いというのがウチの売りです。これはもう昔からです。なぜかというと、私は技を教えませんし、私自身の技も教えません。というのは、自分の体型とか自身のものの考え方や性格は、みな違うからです。ただし、〝師範こういうのを教えてください〟と言われたら、私は教えます。それでも私は絶対にこうしろなんていうことは一切言いません。基本的には、みんな自由にやっています。先述しましたように、帝京大学で揉まれてくると芯ができてきます。やはりそういうところから自然にかまえも現れてくるのです。やらされているのではなく、自分でどう気づくか、気づかせるか。気づいたら次にどのように行動するの?気づけなかった時はどうするの?そういうことの補足やヒントは、いつも言っています。ただし、昔は違いました。昔のOBが、〝師範、本当に優しくなりましたね〟と言っていますが、それは言葉かけをしているからで、言葉のキャッチボールは本当に大事です。

―学生が財産、OB・OGが財産、コーチ陣が財産、そして帝京大学の冲永理事長が武道を奨励していただいているお蔭、栄養面をしっかり支えてくれているお蔭で他の大学生と体も違うと話されていました。また香川師範は昭和57年から科学的トレーニングをされていたと仰られました。科学的トレーニングについても教えていただけますか?

科学的トレーニングについては、私が習ったのは、「疲れない細胞を作るトレーニング」です。例えば、1分間動きっぱなしでインターバルを行って、また1分やる等、自分に負荷をかけて、それを何セットも続けるというように、限界まで挑戦する練習を私はやっていました。今の学生さんたちもそれを全部ではありませんがところどころ抜粋しながら行っています。栄養面については、栄養士の先生の指導の下、大学のサポートです。朝は自分たちで作っていますが、昼と夜は大学で食べていますので、睡眠も含めて体が自然にできてきます。また、食べることで精神的にも肉体的にも回復します。

―徹底的に基本をやる。基本練習をいかに工夫して学生たちに教えていくか? 基本技術を修得していることが大前提であり、基本があるからこそ形を破ることができる。基本稽古は強くなるために通らなければいけない道だと考えます。また基本を修得するには、これに適した年齢があるとも言われ、やるべき時期にやるべきことをやっておくのが重要と言われました。基本稽古についてもう一度教えてください。

今年の新1年生も合宿に参加しました。その合宿での感想を全員に書いてもらったところ、新1年生の感想のほとんどが基本の大事さについて書いています。つまり、そこまで高校では行っていなかったのでしょう。また、合宿に参加させる上で、前もってあまり細かいことは伝えておりません。従って合宿で基本の在り方について、なぜ基本をやらなければいけないか、なぜチューブトレーニングをやらなければいけないのか、なぜこの練習をやらなければいけないのか等々を教えた訳です。それでこういった感想を書いてきました。やはり先輩との違いや、空手には組手と形と2種目ありますが、そのどちらにも基本があります。基本の在り方を理解することで、発展し伸びていく一つの基盤となるのです。それを分かって練習するか、分からないで練習するかで、違いが出てきます。そういうことを1年生が感じた中で、しっかり的を得たことを書いていますし、後は実践していくことです。今回新1年生が合宿に参加して本当に良かったと思っています。

―人生は出会い、笑いあり涙あり感動あり、夢を持ち続けることの大切さを学生の皆さんに話されているそうですが、あらためて新入生に向けてエールを送ってください。

人間、心が成長したら、必ず良い結果がついてきます。空手で言えば、やはり、〝強くなりたい、強くなりたい〟という気持ちは皆持っています。その中で強くなるためには、何が強くなるのかというと、やはり気持ちが強くなるか、ならないのかです。気持ちの弱さが出ると、試合には勝てません。その〝気持ちの弱さって何?〟と言ったら、ぶれることなんです。人間って迷うんです。言葉は悪いけれども、賭け事なんかも、迷ったら負けとよく言いますが、勝負事というのは、「勝つか」「負けるか」です。それは相手ではなく、自分自身です。自分自身の心の成長があって、ぶれない。やり通す、貫き通すことができるかどうかです。人間って心がみんな弱いんです。その弱さを理解する中で、稽古で強くしていく。「強くしていく」というのは、少々の痛さも辛さも辛抱も我慢もして練習をやり通す気持ち、それを日々作っていくことです。何も難しいことではありません。人間の心の中には、「一生懸命やる心」と「なまける心」の2つが誰にもあって、裁判官でも、お寺のお坊さんでもおまわりさんでも学校の先生でも、私も、みんな同居しているのです。人間生きている以上はなまける心なんて無くなりません。その中でやはりお寺のお坊さんも一緒でしょう。〝なんで毎日拝むの?〟と。拝むことで自分自身を律して、弱いから修行を積んでいるのです。強かったらやらないです。そこを分かりやすく、学生らにも言うのは、弱い心は誰しも持っています、私も持っています。でもそれを自分で分かって少しでも一生懸命やる心が上回ったら、それでOKです。つまり、そういうことをぶれないでやり通して、生きていってほしいと願っています。

―昨年の6月に開催された「第1回全国少年少女オープン空手道選手権大会香川政夫杯」についても教えてください。

私は日本空手松涛連盟の首席師範です。「香川政夫杯」は、日本空手松涛連盟本部が主催でスタートしました。いま現在やっているのは、岡山県と長野県です。一番古いのは長野県の松本で開催している「香川杯・アルプス杯」ですが、もう20年近く行っています。岡山県でも開催して10年になりますが、去年はコロナ禍で中止になってしまいました。静岡県では去年決行して、全国の小学生・中学生・高校生までが参加しました。

香川政夫氏 プロフィール

定時制高校へ通いながら、空手家であった兄の影響を受けて空手の道へ入る。日本空手協会主催の関西地区大会での活躍が評価され、帝京大学法学部へ入学する。卒業後、日本空手協会の指導員となる。

第1回IBUSZワールドカップ団体形の部優勝、第28回全国空手道選手権大会(日本空手協会(JKA) )組手の部・形の部ダブル優勝、第3回松濤杯世界空手道選手権大会 (JKA) 組手の部優勝。1982年より帝京大学空手道部監督・師範に就任。2010年4月より日本空手松涛連盟首席師範に就任。このほか、世界空手連盟 (WKF) 技術委員委員長、全日本空手道連盟 (JKF) ナショナルチームのコーチ、監督、強化委員会委員長などを歴任。

写真提供:帝京大学
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