第33回日本東方医学会開催!
平成28年2月21日(日)東京国際フォーラム・ホールD5にて第33回日本東方医学会が開催された。
谷美智士先生追悼セレモニー
「日本東方医学会の歴史とこれから」
谷美智士先生追悼セレモニー「日本東方医学会の歴史とこれから」と題して谷美智士先生の追悼セレモニーが開かれ、朝霧高原診療所院長・山本竜隆氏、マリーゴールドクリニック院長・山口トキコ氏、東銀座タカハシクリニック院長・高橋博樹氏の3名が登壇した。司会は会頭の長瀬眞彦氏が務めた。
はじめに司会の長瀬氏から〝谷美智士先生が昨年の2月28日に亡くなられて丁度1年くらい経ちます。夫々の先生方に谷先生の思い出を語って頂きたい〟とあり、セレモニーが開始した。
「谷美智士先生から学んだあまりにも多くのこと」
「谷美智士先生から学んだあまりにも多くのこと」と題して山本氏は、〝丁度20年前、私が29歳の時に医事新報という雑誌で谷先生が医師を募集しており、それに応募したのが切っ掛けです。大学病院や普通の医療機関でしか医療を行ってこなかった私にとって谷先生に面接をして頂き、タニクリニックの素晴らしい環境、サロンのような内装、患者さんへの高いレベルでの接遇など、こういう医療が日本にあることに衝撃を受けたのを覚えています。谷先生は西洋医学も東洋医学もされますが、患者さんであるその人に合わせた医療を作っていくという強い意志に基づいて診療をされ、その総合的な医療とおもてなしに感銘を受けました。
漢方も何もわからない29歳の私が谷クリニックで外来して良いのかと不安に思いながら勤務した訳ですが、2か月3か月経っても谷先生は教えてくれません。ある時、谷先生は〝僕が先生ではない、一番の先生は患者さまだよ。一生懸命脈を診て一生懸命お腹を診て、話を伺って、自分で思った処方をして何が良くて何が悪かったかを真摯に受け止める。その積み重ねしかないんだ〟と言われました。
もう1つ、タイやルーマニアへのボランティア活動について大学病院でも中々出来ないことを一人でされる実行力、決断力は物凄いと今でも思っております。私は静岡県の富士宮市の無医村で医療をやっております。学会や厚生労働省が言われていることは正しく基本ですが、一番の先生は患者様であると、目の前の患者様方にその人のための総合的な医療を作っていく、谷先生に学んだことをベースに今やっている次第です。
谷先生が作られてきたこの学会、ある意味で時代を先取りしていた学会じゃないかと。今は日本統合医療学会、西洋も東洋もやっていくという医療がどんどん出てきております。でも、これだけ昔から合わせてやっていくんだ、様々な医療に可能性を見いだして使っていくんだという学会は、無かったと思います。今では当たり前かもしれないけれども、当時は本当になかった。ましてや、統合医療という言葉もなかった時代に統合的なことをされていたのです。学会としては学術的なものも大事ですが、より実践的であること、そして常に先進的であること、東方医学という統合医療は西洋、東洋だけではなく温故知新の医療だと思っています〟と話した。
「外科医の私が東方医学会の一員として学んだこと」
「外科医の私が東方医学会の一員として学んだこと」と題して山口氏は、〝私は外科なのになぜ谷先生の医療にはまってしまったかという話になります。平成14年から全部の医学部でカリキュラムに含まれているそうですが、基本的には漢方の講義は全くなかった時代です。寄生虫学科の教授は寄生虫よりもこれからは漢方じゃないかと、たまたま谷先生の授業を2時間位受けたのが始まりで、谷先生と出会うことができ漢方東洋医学に出会いました。丁度作家の遠藤周作先生との出会いもあり、遠藤先生自身も谷先生の患者さんだった関係もあり、より谷先生と勉強をやっていく切っ掛けが出来たと思います。
ただ大学時代、私が漢方医学をやったかというと全くやらずに外科医になり、研修医が終了して平成6年頃にやっと中医学セミナーの受講を始めましたが、興味本位で実践せず日々の診療に追われていました。平成12年に開業し、そこから本腰が入るようになりますが、平成19年からBATを用いた症例の検討会等に参加させて頂きました。BATというのは、谷先生によって作られた自己免疫疾患を含む難病治療の一つです。私の所は肛門外科・胃腸科がメインですので、潰瘍性大腸炎に対して主に使用してきました。潰瘍性大腸炎は難病疾患に指定されており、BATで免疫を完成させて西洋医学を使わないで完治を目指すという目標でやって参りました。西洋医学を使っていないのかと言えば、西洋医薬も併用しながらになります。
谷先生は、脈診を点数化することによって、これだけよくなっている、それを患者さんに話をするという、本来中国医学というのは見えないものを見ていくという様なところがある訳ですが、それを患者さんが理解しやすいようにしっかり点数化することが出来たということで、これはおそらく谷先生しか出来ないことだったと思います。他に自己免疫疾患の方達のために食事療法を指導され、食品が治療薬になった。私がBATを継続した症例に関しては、期間が長く投薬を中止した例もあり、中々BATをやるということを理解して頂くのが難しいので、その辺は私自身の課題です。谷先生は食材を組み合わせて最終的にはきちっと医食同源をなさった。BATの効果は、他の自己免疫疾患で実証されているので、今後も広まることを期待したい〟など述べた。
「谷美智士先生へのご追悼の言葉」
「谷美智士先生へのご追悼の言葉」と題して高橋氏は〝私は谷先生が亡くなられるまで7年ほど谷クリニックに勤務させて頂き、亡くなられてから治療を継続ご希望の患者さんを引き継いで開業しています。谷先生には勤務中ご指導頂きましたし、プライベートのことでもいろいろお世話になりご冥福をお祈り申し上げたい、感謝申し上げたい。
繰り返し教えて頂いたことで幾つか頭に残っていることは患者さんの健康回復が一番大事で、開業したりすると経営のことも気になりますが、そういうことは考える必要がなく患者さんの治療のことだけ考えていたら全て上手くいくから患者さんのことだけ考えなさいとよく仰っていました。食事が大事だということ、最近の食事は谷先生の目から見ますと気が悪いということで、有機の自然な栽培をされたもの、気のいいものを選ぶことが必要である。そして、治療に関する素材についても機能的に自然の生薬等の中に治療に使えるものがあるので、それを重視するべきだと言われていました。
中医学は脈診が非常に重要視され、普通脈診は手首の脈をとって、触覚を介して評価をする訳ですが、谷先生の脈診はどうもそれを超えておりましたようで、患者さんの気を診るという感じです。私がタニクリニックに勤務するようになった切っ掛けは谷先生のセミナーで、谷先生が脈を診ると脊椎の何番目に病気があるか分りますと言ってらしたので、「どういうこと?」と思ったんです。脊椎の病気というのはレントゲン撮って診るんですが、何で脈をとると分かるのだろうと謎でした。何回かお聞きする内に実際に確かめてみたいという好奇心にかられて勤務させて頂いた。谷先生が脈を診て、貴方眼底に出血しているから今すぐ眼科にいきなさいと。行ったら実際に出血していたとか、そういう患者さんに何人もお会いしてびっくりしました。脈診でそういうことが分かるためにはどうしたらいいんでしょうとお聞きしたら、私は25年やって、やっと分かるようになったから25年我慢して続けなさいと言われて、25年先にどうなっているのか、自分ができるようになるのか分らないんですが、とにかく根気が大事だということです。
谷先生は患者さんの気を診たり食べ物や自然の素材、直接気を診るとどういうタイプの病気か分ったり、この素材は患者さんに効くかどうかが分かると仰っていた。中々理解が難しいんですが、実際にそういう視点で治療を行うと効果が出てきますので、正しいのだろうと思っています。谷先生は、素晴らしい業績を沢山残していらっしゃいます。BAT療法のメカニズムは先ほど山口先生も話していましたが、どうしてこれが効くのかとお聞きしたが、あまり教えてくださらなかった。谷先生は猫がお好きでしたので、ロゴマークを猫にして開院しています。谷クリニックのシンボルマークの時計もいただき設置しています〟と結んだ。フロアから健康ジャーナリスト・原山氏が谷先生の思い出を語られ〝やはり谷先生は天才であると思いますが、3名の先生も天才として素晴らしい統合医療にしていくことが谷先生に対する恩返しになると思いまして、3人の先生方にご期待申し上げます〟と述べ、追悼セレモニーが終了した。
1937年12月11日出生(於:長崎)。1958年、国立長崎大学医学部入学。1963年、国立長崎大学大学院入学後、宮崎県立病院にてインターン。1969年、神奈川県小田原市立間中病院勤務、東洋医学の権威である間中喜雄院長とともに日本初の針麻酔手術に成功。1973年、日本初の針麻酔による帝王切開に成功、東京青山にクリニック開業。1983年、中国医学の普及を目的とした「財団法人東方医療振興財団」発足、専務理事に就任。1985年、東京女子医大の要請を受け、同医大漢方専門外来を担当(1992年まで)。1989年、日本東方医学会の会長就任。1990年、中国の「中西医結合学会」と協力して日本語版専門誌「中西医結合」を発刊。1991年、ルーマニアを訪問、ボランティアで同国のエイズ幼児治療に乗り出す。1997年、財団法人東方医療振興財団理事長に就任。日本代替・相補・伝統医療連合会(JACT)理事に就任。1998年、ルーマニアでのエイズボランティア治療の好成績及び長年の貢献に対してルーマニア政府より感謝状を授与される。2002年、カンボジア保健省と協力して、カンボジアで生薬によるエイズ幼児救済ボランティア治療を開始。2006年、18歳に成長したルーマニアのエイズ児を迎え、第3回エイズ幼児救済チャリティーコンサートを開催(東京紀尾井ホール)成功させる。収益の全額をエイズ児への援助とした。2007年、癌・リウマチ・膠原病・エイズ等の難病医療の更なる有効性を確認し、若手医師たちへの伝授を通じて、生体活性治療・BATの拡大を開始する。2008年、日本東方医学会名誉会長に就任。2015年2月28日、永眠。(谷美智士先生を偲ぶ―東方医学を究めて半世紀―冊子より)