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何故、柔道整復は国民に支持されてきたのか?【第2回:柔道整復の源流】

2017/03/01

鎌倉時代から室町時代(およそ1200年~1500年頃)に活躍された事実上の軍医と呼べる金創医たちが表した医書から、鷹取流:鷹取甚右衛門秀次(兵庫)、神保流:神保宗左衛門(富山)、吉益流:吉益半笑斎、永井流、板倉流、蔵實流、板坂流、大野流などの流派が存在し、呪術的な一面を併せ持ちながら医家として、また接骨術としても活躍をされたことが読み取れるようです。その治療方法については、前回表したように完全な秘密主義が貫かれ、一子相伝の形態が守られたまま経過します。

戦国時代以降の我が国の医学全般に大きな影響を与えることになるのは、西洋医学だと言えます。現代においても単に西洋医学・東洋医学と言い表されますが、とても単純な捉え方では、仏教の伝来とともに或いは遣唐使などによって東洋医学が伝わり、キリスト教などの布教を通じて西洋医学が伝わりました。
西洋医学における外科の革命的進歩をもたらせたアンプロアス・パレー(仏1510年~1590年)は外科学のみならず、接骨術の進展にも大きな影響を与えた存在です。

西洋医学として主に南蛮流外科はポルトガル、紅毛流外科はオランダから日本へ伝わり、日本の医学全般に取り入れられることになります。これらの西洋医学は、やや停滞気味にあった医学界で熱狂的に歓迎され医学水準が向上したことは言うまでもありません。しかし、我が国はその後に徹底的な排外施策を講じて江戸幕府対外政策を進めます。
そして西洋医学は禁止令により廃絶に瀕することになりますが、長崎を経由して渡来したオランダ流外科である蘭方医学は当時の医師たちに徐々に浸透します。また将軍 徳川吉宗 の時代に洋書の規制が緩和され、将軍 徳川家定 の病に、漢方主体の侍医治療で回復が得られないことから、蘭方医が奥医として任命されます。
これらを起点として西洋医学の禁止令が解かれることになり、江戸時代に興隆した西洋医学は蘭方医学を基本として確立されることになりました。

江戸時代は、オランダ医学(和蘭医学)と共に、同時代の柔道整復と言える接骨術が特に栄えることになり、医学全体としては東西両医学を吸収し同化し、時代の流れと共に発達・進化を行いつつ近代医学の道を辿ることになります。
接骨(正骨)の系統は大きく3系統に別けることができます。

1
東洋医学の影響が比較的濃い系統
高志鳳翼(大阪)による「骨継療治重宝記(1746年)」
我が国初といえる正骨専門書で「骨つぎ」という文言記載あり
2
西洋医学の影響が比較的濃い系統
華岡青洲(1760年~1835年 和歌山)麻沸散による全身麻酔外科手術
華岡流正骨術として脱臼・骨折や先天性変形の治療方法も考案
3
東西両医学の影響を受けつつ日本独自の要素が比較的濃い系統
実証科学としての研究・成果に由来する系統
山脇東洋(1705年~1762年)京都で死刑者の解剖を実施する
「臓志」「乾坤」で解剖所見をまとめる
星野良悦(1754年~1802年 広島)死刑者の解剖を実施する
死体を研究し木製の骨格模型「身幹儀」を製作させる
各務文献(1755年~1819年)大阪葭島で女刑屍の解剖を実施する
「婦人内景之略図」「整骨新書」「各骨真景図」などを著す
(奥田木骨の製作者:奥田万里は門下生)
柔術の救急法に由来する系統
吉原元棟(?~1800年)吉雄流外科の創始者の門弟
柔術救急法から杏蔭者流整骨術を創業 正骨専門家を初標榜
二宮彦可(1754年~1827年)吉雄流外科の門下生で吉原元棟にも師事
漢方の知識に西洋医学てき包帯法を加えて「正骨範」を著す
名倉直賢(1750年~1828年)一門の初代として接骨専門家の名乗りを
を上げ現在も子孫の皆様が家業を継承されている

 

これらの他に、柔術の流派に属する接骨師の存在があり、武道としてのみならず接骨術を奥許として伝授していたことが明確に記されているのは楊心流と、それより分かれた真之神道流、この両派を基礎として成立した天神真楊流があります。

日本の柔術の本来の起源を別にして、中国からの亡命者で文武両道であった陳元贇が1625年から約2年間、数名の日本人に中国拳法と中国正骨術を教授したことから日本柔術流派の一源流となり、柔道と接骨との結びつきの端緒となったようです。

 

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